2018年03月04日

第二次大戦・太平洋海域空戦を戦い抜いた零式(艦上)戦闘機いわゆる「ゼロ戦」のもう一つの話題

三沢アメリカ村スカイプラザミサワ(東北一アメリカナイズされた店かな?)広場上空、いささか小寒いがひよりの良い気候でした。では内外のニュースですが、なにげに報道記事を見ていたら「戦時中に昼から宴会を開いた(旧)三沢基地 懸命に生き死んでいった若者たち」と題しての第二次大戦中の、三沢基地の零戦搭乗員の在りし日のほんのりとしたエピソードの写真紹介があった。内容は、『昭和19(1944)年5月27日(土)、当時は休日だった海軍記念日に、青森県の三沢基地宿舎で撮られた、第二五二(ふたごおふた)海軍航空隊の司令、飛行隊長以下、零戦搭乗員の面々である。』とある。それを拝見しながら想いに耽る・・・・その写真撮影時期が昭和19年5月とのこと。この時期に同じく撮影された「旧大日本帝国海軍・海軍三沢飛行場」に訓練部隊?として配置されていた「北東方面艦隊」隷下「第12航空艦隊」・「第27航空戦隊」・「第252海軍航空隊」直下飛行隊の「戦闘第302飛行隊」・「戦闘第315飛行隊」・「戦闘第316飛行隊?」・「戦闘第317飛行隊」の零式(艦上)戦闘機「二一型及び五二型」定数48機の列戦である。貴重な資料の一つであるなぁーとジジイのひとり言。
『追伸』 太平洋戦争中に戦争初期から中期段階でアメリカ軍戦闘機部隊から恐れられた「ゼロ・ファイター」いわゆる「ゼロ戦」の呼び名だが、戦後に表現された言葉と言う話があるが、当時の国民はこの日本が誇る「名戦闘機」の所在すら知らされていなかった。大々的に「ゼロ戦」の名前が知れ渡って来たのは、実は戦争終結やや一年前で陸上基地出撃用、新型零式戦闘機(五二型甲:A6M5a)が新聞公表されてからである。日本軍・戦闘機乗りの「荒鷲(海軍は“海鷲”、陸軍は“陸鷲”)」たちの部隊の中では「レイセン(零戦)」を「ゼロ戦」とすでに呼んでいた。従がって、すでに戦時中から旧海軍パイロット仲間では「ゼロ戦」の呼び方が定着していた。このゼロ戦はより飛行安定度も改良され、何よりも機体・急降下制限速度も大幅に改良されたものであった。
第二次大戦・太平洋海域空戦を戦い抜いた零式(艦上)戦闘機いわゆる「ゼロ戦」のもう一つの話題


  


Posted by tsuzuki  at 17:29Comments(0)