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Posted by ミリタリーブログ  at 

2016年04月14日

大日本帝国海軍・三沢海軍航空隊のネイルとベティ

三沢アメリカ村スカイプラザミサワ広場上空、なんか一応は晴れ上がった感じ。今朝は珍しく飛行場上空で戦闘機の飛行展開が激しかった。近々、どっかに行くのかな?ところで、第二次世界大戦・敗戦時の旧日本軍海軍航空隊三沢基地でもアメリカ連合軍で三沢基地に一等最初に偵察進攻してきたスターク陸軍工兵大尉率いる山猫部隊の先遣隊により敵状観察され、その後アメリカ陸軍・第32施設工兵隊の大隊進駐による、いわゆる武装解除に至る。当時は日本軍が負けたとはいえ、いつ決起するか判らない時代でもある。スターク大尉の功績は三沢基地に配備されていた日本軍の一式陸攻、ゼロ戦を背後に撮影された写真に見て取れる。また敗戦時には日本海軍航空機の各種の機体が三沢基地にもあった。例えば、一式陸上攻撃機など・・・。チト珍しいきれいな絵を発見した。三沢基地と関係のある九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機の絵だ。旧日本海軍航空機部隊も最盛期には陸上爆撃機48機、陸上攻撃機48機、さらには艦上爆撃機48機そして前方展開後方支援の輸送機48機体制で戦闘展開に臨んでいた。旧軍飛行隊の場合はおおむね48機編成であるが敗戦まじかには撃墜されるなど機体消耗率が激しく爆撃編成基本体制などのことは考えられなく旧日本軍の敗戦間際の状況では混合航空隊編成、いわゆる戦闘機と爆撃機の「戦爆連合」編成で強大なアメリカ連合国軍に立ち向かわなければならず、切迫した状況下におかれていた。戒めであるが相手と戦を始めるなら大本営作戦部の当時の連中もキチンと相手を理解しておかなかったことで大変なことをしてしまった。諸君たちが多大な国民の犠牲を強いて悲惨な敗戦日本国にした。軍人主導だけではそのような無残、極悪非道な結果を生む。決して戦争はして良くないが!

  


Posted by tsuzuki  at 15:34Comments(0)